23歳の大学4年生で早稲田大学写真部120期(4年目)。高校生からカメラを始めるも下手の横好き状態で低空飛行。大学では写真部に入部し、部員と日々精進を重ねる。人以外なんでも撮る。沖縄と猫が好き。
Kakuの使用カメラ
九州といえば中学生時代を思い出す。当時は熊本地震とその余波が九州を襲って間もない頃で、中学生ながら坊主2人でよく旅行に行こうと思ったなと、今振り返って思う。その頃から世の中ではスマホで写真を撮る行為が浸透しつつあった。まさか今更スマホvsカメラ論を叙するわけではあるまい。
撮影行為が体験となり、記憶となればそれで良い、それが良い。
10年近く経ってまた九州を目指そうとしている傍ら、お供が必要であろうと考えるのは自然な流れであった。今回はアールイーカメラさんよりGFX100RFというカメラをお借りした。
触れ込みによると、なんとフルサイズより大きいラージフォーマットで1億画素の写真が撮れるそうな。はて「一億」という数字なんていつ口にするのだろうか。1億円という大金なんて持ち合わせていないし(持ってたらこの記事は生まれなかったろう)、少子化とはいえ日本の人口はまだ1億2千万人ほどいるわけだ。そういえば「一億総中流」なんて言葉があったと連想ゲームに区切りを付けておく。とまぁ脱線甚だしいが、それほどまでに衝撃的な機材であった。ちなみに当機材をご紹介いただいたのは、私が当初ハッセルブラッドの機材を希望したもののレンズの在庫が無かったが為だった、というオチ付きである。すぐに本機を連想されたのは、スタッフによる仕事を極めし専門性の賜物であろう。
さて、九州へはどうやって向かおうか。尻と背中を痛めながら車で強行軍でもしようか。それとも横須賀からのんびり船で向かおうか。それも悪くないし、実際1人ならばそうしていたかもしれない。友を巻き添えにする訳にはいかないので大人しく航空機に乗るのだが。
飛行機の窓から見える街を脳内で整理して取り込むのは至難の技である。苟もデジタルネイティブ世代の我らであっても、機内モードという印籠を前には降伏せざるを得ない。だが私は好奇心旺盛である。質問のし過ぎで先生から質問を禁止される人間である。窓から見えるあれこれの建造物について、Googleをひっくり返すほど調べたくなるものだ。このGFX100RXの解像力には驚かされるばかりである。そういえばあの建物は何だろうど調べる際に、この機材は建物の輪郭までくっきりと見せてくれる。いやはや参ったものだ、これでは広角の風景撮影なんて他の機材では出来なくなるじゃないかと、機材返却後の心配をしたものだ。
旅先でやることと言えば美食を堪能することであるが、美しい景色で以て心の栄養と成すことも同じくらい重要であると私は思う。
熊本の雄大な草千里ヶ浜の夕暮れ時を前に、ただカメラを持ちながら立ち尽くすことしかできなかった。より正確に言えば、シャッターを切ることに精一杯で、カメラをマニュアルで設定するのを放念していた。それでもこのカメラは思い出を美しく切り取ってくれた。眼前に白む太陽の光と、その光でやわらかに照らされた木々。なるほど原風景とはこういうことかと、田舎に移り住む人の気持ちがよく理解できた。
鈴虫の鳴く季節である。暑いのでできるだけ手持ちのものは少なくしておきたい。飲み物や財布などの持ち物は必要なのでカバンを持っていく。友人がテキトーに詰め込んだ結果警察のお世話になった教訓を活かし(笑)、西行背負で撮影地へ向かう。普段の機材であれば到着するまでにはゼエゼエしていたのが、GFX100RFはまるで違った。首も肩も軽い。息を呑む美しさの写真を切り取ってくれる機材がここまで取り回しやすいのは、はっきり言って「チート」である。
とは言え、何も世界は自然だけで構成されているのではない。人工物もまた重要な要素である。森の深淵に人間の営みがあった。幽玄な空間に、湿った空気がそこにはあった。この世のありとあらゆる因縁を感じた気がした。山の西日に照らされる鳥居と相対すると、あの日熊本で照らされたのと同じ陽の光だというのを印象深く思い起こされる。あの日は木々を照らしていたが、今日は鳥居を照らしている。いや、いつ何時でも同じように照らしている。いけない自分中心の視点が過ぎた。
人の営みに敬意を示しながらシャッターを切ってゆく。このカメラは十分に、いや十二分に敬意を払ってくれた。しっとりとしたシャッター音もさることながら、フジ謹製の様々なフィルターを適用することができる。写真や化学に長年向き合ってきた富士フイルムだからこその、極めて謙虚でかつ適応力の高い機能である。
少々細かい話をさせてもらいたい。このカメラはF値が4である。これは必要最低限の明るさである。しかしながら背景ボケがとても綺麗である。レンズ一体型のデジタルカメラでここまでボケの綺麗な機材は見たことがない。例えばズームレンズで望遠端まで伸ばして撮ると玉ボケが大きくなってしまう。かといって標準域でF値を下げると、被写界深度が浅くなって被写体全体にピントが合わなくなる。スナップで震度合成ガッチャンコするのは骨が折れるので、センサーが大きいのはそれだけで価値がある。木漏れ日に当てられる風鈴が、大地の吐息に吹かれて心地よい音色を奏でる。やわらかな光の陰影を見事に捉えている。
もちろん、人懐っこいネコちゃんにもぽかぽか陽気を提供している。GFX100RFで撮ると毛の一本一本までくっきりと写し止めることができる。おやヒゲにピントを吸われたようだ。生意気なヤツめ、写真越しにこのヒゲを撫でてやりたい。弊学にはつい1年前まで猫が二匹棲み着いていた。授業が終わればもみもみしに行ったものだが、このカメラの解像力で以てできる限りの記録をしておきたかったものだ。いや、それは尊き生命に失礼だろうか。
今、遼東半島を走る鉄道の二等車で本稿の筆をとっている。かつて列強の碁盤たる様相を呈した、あの遼東半島である。一等車との差額は数百円程度ではあるが、身の丈というものがあるので大人しく二等車に収まる。車窓からは収穫間近の稲穂が背中を向けて山の方を向いている様子が、はっきりと見て取れる。一つぐらい私を向いてもいいじゃないか。この美麗な風景を写しとりたいが、生憎この最高なカメラは手元にはない。当たり前だ一週間限定の貸出だからである。そこでふと気づいたことがある。私はとても恵まれているのだと。身の丈という言葉を使ったが、このGFX100RFという機材は私にとって身の丈にあわない機材なのだ。学生の青二才で扶養内年収100万である。どう考えても釣り合わない。そんな大層なモノを、一週間「も」使うことができたのだ。
大学でレポートを書くときにGoogle Scholarをよく使う。既出の論文や先行研究を一手に調べることができるのだが、「巨人の肩の上に立つ」という言葉が書かれている。先人の偉業たる膨大な知識の積み重ねの上に立って学問を修められる、という意味だ。今回のアールイーカメラコラボ企画は、大いに性質を一にする企画であった。「途方もない研究や投資の上に成り立った製品」という巨人の肩に、幸いにも乗せていただいたアールイーカメラさんに心より感謝を述べて、本稿を締めたい。
しっかしまあ、普段遣いカメラの巨きいことよ
23歳の大学4年生で早稲田大学写真部120期(4年目)。高校生からカメラを始めるも下手の横好き状態で低空飛行。大学では写真部に入部し、部員と日々精進を重ねる。人以外なんでも撮る。沖縄と猫が好き。
Kakuの使用カメラ
Kakuの使用レンズ